41. 本物の教育者としての常識(6)

佐藤康行「教育セミナー1DAY」より

 

現役教職員が対象の教育セミナーを夫婦で開催した事があります。その時のリライトからの抜粋です。

 

どのシーンを切り取っても、奥が深くて佐藤学長が言わんとしていることが、ビシバシ伝わって来るのは何年経っても色あせることがありません。

 

「本物の教育者としての常識」シリーズでお届けさせていただきます。

 

「教育者」とは、学校などの教育機関のみならず、全ての全てに通じる事だと思います。「教育をしている者」は、実は「教育をされている者」だとも感じて居ます。

 

 

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はい、ちょっとここまででなんか質問を受けたいと思います。はい、どうぞ。

 

《受講生》

先ほど、あの学長はここに来るまでに全部準備をしてもらって学長は「ここに来ただけ」ってお話をされたんですが、それはやっぱりここにいるのは大人で、やっぱりここを目指してやって来ているからこそ、学長がポンとここに来てお話が出来る状態になっていると思うんですが、学校現場において子どもたちがそういうふうに動けるとは到底思えなくて。

 

やっぱりさらに言えば、こっちは教科を教えるという場面になってくると、教科を教えるところで準備をさせることはなかなか出来ないですし、もちろん予習とかそういうのはあると思うんですが、今のような形を作って、どんどんどんどんというのは出来る場面もあると思うんですが、どうしても教師がそうやって、なんていうんですか、簡単に楽に行く方向には難しいんじゃないかなって、今思ってしまったんですけど

 

 

《佐藤康行》

そうね。まずまだちょっと三日月に見ているんですよ、子供を。子供の能力を、ね、基本的にね。

 

そのまま大人になっていくんですから、その大人のことを今出来てもわたしはおかしくないと、大体のことは。ただやったことないからやれないだけであって、今、高校野球やってるけど見てください。

 

まず、まずはね。若い子達。だからそういうことを、一回やらせてみてから見ればいいんです。出来ないことは本人の課題になるから。

 

だから全然、極端な話し出来なくてもいいわけ。出来ないってことがわかるから、出来ている人を尊敬出来るようになるわけです。

 

「ああ、自分には出来ないんだ、やっぱり先生は凄いんだ」とかね。

 

やっぱり、ね、親は凄いんだとか、ってことがわかってくるし、それも出来ていることになるわけです。人間としての。その作業はまだ出来ないかもしれないけど。

人間として養われるわけです。人を尊敬する心、先輩を敬う心。

 

 

(つづく)